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NHK漫才コンクールの思い出 [漫才]

私が東京漫才の魅力に目覚めたのは昭和50年前後のこと。当時は岡山のTV番組でも、結構、東京漫才を観る機会があったように思う。NHKでは昼の時間帯の「ひるのプレゼント」とか、「土曜ひる席」なんという番組でもみられたように思う。

東京漫才が栄華を極めていたのは昭和40年代だったと思う。てんや・わんや、桂子・好江、Wけんじ、天才・秀才、千夜・一夜、はるお・あきお、チック・タック、京二・京太等々、お茶の間の人気者が揃っていた。

ところが、多くのコンビが解散していき、昭和50年代になると、限られたコンビしかTVで観る機会がなくなっていった。そして、「ザ・マンザイ」というブーム(マスコミによって作られたブーム)が起こると、TVはハイジャックされたかのように、若い、多くは促成的に結成されたようなコンビばかりが登場するようになり、私が好む東京漫才は締め出されるかのごとく出番を失っていったのである。

そんな中、岡山で比較的多くの東京漫才を観ることができる貴重なTV番組が、NHKの「新人漫才コンクール」であった。このコンクールの出場コンビはなぜか東京漫才のコンビで、これに優勝することが大きなステイタスであった。歴代優勝コンビ等は次の通りである。 なお、黒字は漫才協会HPに掲載のもの、青字は小島貞二著「漫才世相史」の記載にもとずくものである(理由は不明だが両者には微妙な違いがある)。

・第1回(1956年)   優勝:獅子てんや・瀬戸わんや、2位:木田鶴夫・亀夫、3位:リーガル天才・秀才

・第2回(1957年前期) 優勝:木田鶴夫・亀夫、2位:春日富士松・雪雄、3位:内海桂子・好江

・第3回(1957年後期) 優勝:リーガル天才・秀才、2位:内海桂子・好江、3位:春日照代・淳子

・第4回(1958年前期) 優勝:内海桂子・好江、2位:青空うれし・たのし、3位:大空平路・橘凡路

・第5回(1958年後期) 優勝:大空平路・橘凡路

・第6回(1959年前期) 優勝:晴乃ピーチク・パーチク

・第7回(1959年後期) 優勝:青空千夜・一夜

・第8回(1960年)   優勝:美田朝かん・夕かん

・第9回(1961年) 優勝:大和わかば・東まゆみ、特別賞:春日淳子・照代

・第10回(1962年) 優勝:クリトモ一休・三休

・第11回(1963年) 優勝:Wけんじ、特別賞:都上竜夫・東竜子

・第12回(1964年) 優勝:大空なんだ・かんだ

・第13回(1965年) 優勝:新山ノリロー・トリロー

・第14回(1966年) 優勝:晴乃チック・タック

・第15回(1967年) 優勝:青空はるお・あきお

・第16回(1968年) 優勝:桂高丸・菊丸、特別賞:(優勝:)丸の内権三・助十

・第17回(1969年) 優勝:東京二・京太

・第18回(1970年) 優勝:大空みつる・ひろし

・第19回(1971年) 優勝:大瀬しのぶ・こいじ

・第20回(1972年) 優勝:Wエース、敢闘賞:(努力賞:)月見おぼん・こぼん、努力賞:(敢闘賞:)あした順子・ひろし

・第21回(1973年) 優勝:青空球児・好児、敢闘賞:榎本晴夫・志賀あきら、努力賞:大瀬ゆめじ・うたじ

・第22回(1974年) 最優秀賞:新山えつや・ひでや、優秀賞:春風こう太・ふく太

・第23回(1975年) 最優秀賞:Wモアモア、優秀賞:大瀬ゆめじ・うたじ、大空あきら・たかし

・第24回(1976年) 最優秀賞:昭和のいる・こいる

・第25回(1977年) 最優秀賞:星セント・ルイス

・第26回(1978年) 最優秀賞:東京丸・京平

・第27回(1979年) 最優秀賞:青空ピン児・ポン児

・第28回(1980年) 最優秀賞:青空ヒッチ・ハイク

・第29回(1981年) 最優秀賞:大瀬ゆめじ・うたじ

・第30回(1982年) 最優秀賞:大空あきら・たかし

・第31回(1983年) 最優秀賞:青空一歩・三歩

・第32回(1984年) 最優秀賞:高峰和才・洋才

・第33回(1985年) 最優秀賞:桂光一・光二

・第34回(1986年) 最優秀賞:新山絵理・真理

毎回5~6組のコンビと過去の優勝コンビが1組、それぞれ漫才を披露するのだが、審査員がいて、毎回ドラマが起こった。登場順はクジで決めるのだが、トップバッターが一番損だった。会場の空気が全然温まっておらず、お客さんがクスリとも笑わない。この貧乏クジを引いてしまった悲劇がたくさんあったことだろう。優勝間違いなしといわれていたツービートやさがみ三太・良太が優勝できなかったのはクジ運も大きく影響したようである。

私がこの番組を確実に観ていたのは1979年で、青空ピン児・ポン児の優勝は記憶に残っている。「世の中はやっぱりお金」という内容の漫才だった。 翌年の青空ヒッチ・ハイクは「エスカルゴ」だったなぁ。

毎回、過去の優勝者&入賞者を記した大きなパネルが登場し、紹介されていたが、全く知らないコンビが沢山いて不思議だった。「丸の内権三・助十」ってどんなコンビだったのだろう?

ある回で、ゲストだった青空一夜師匠が、歴代の優勝者を紹介していたときに、「このコンビはすでに解散」、「このコンビはただいま行方不明中」などと説明していた記憶がある。

 以降は必ず毎年観ていたと思う。優勝できずに毎年毎年出てくるコンビがいて、そういうコンビは顔と名前も覚えているので、思わず応援したくなった。そうしたコンビがようやく優勝を果たしたときは大きな感動があった。

東京漫才の若手の登竜門であったこのコンクールも34回で終了。 翌年からは「NHK新人演芸コンクール」に衣替えされ、落語の部とそれ以外の演芸の部という2部構成となってしまった。また、この頃、東京漫才のホームグラウンドであった浅草松竹演芸場が閉鎖され、東京漫才の長い暗黒時代が訪れることになる。東京漫才はこのまま滅んでしまうのか?当時は本当に心配に感じたものだ・・・。


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倉敷でナイツを観る [漫才]

東京の寄席の定席で、若手漫才の四天王と呼ばれている4組の漫才コンビがいる。落語協会に所属しているのがロケット団とホンキートンク、落語芸術協会に所属しているのがナイツと宮田陽・昇だ。岡山在住の私にとって東京の寄席に行く機会は滅多にないけれども、四天王のうち3組は何回か観ていて、どのコンビも甲乙つけがたく面白いと思った。ナイツだけは、どういうわけか縁がなく、いつかは観てみたいと思っていた。

そのナイツが、なんと、倉敷に来るという。それも、アリオ倉敷の屋外広場での無料公演だという。買い物をエサに小学生の娘を誘い、観に行くことに。11:15頃に到着すると、屋外広場ではすでに行列ができていてビックリ。全国区の人気があるのですなぁ~。

昼食をとったり、買い物をしていたため、入場開始時間(用意されたイスに座れる時間)の12時を回ってしまっていた。あわてて広場へいくと、空いている席は10席ほどしか残っていなかった。ちなみに、この日用意されていたイスは160席。すなわち、池袋演芸場よりも多い!!

しかし、開演予定時刻は13時となっており、炎天下の中、時の経過の遅いこと!!

ナイツの2人は5分前頃になって、向こうから歩いてくるのが見えた。用意された160席は満席で、後方にはもちろん、2階デッキも、立ち見のお客さんであふれかえっていた。無料公演とはいえ、もの凄い人気だ。

昔、フジテレビにいた「なっちゃん」似の司会者から紹介されてナイツの2人が登場。約30分の舞台で、途中に塙さんの物まね、土屋さんのなぞかけもあるという、盛りだくさんの内容だった。最後に2人からのお土産として色紙が5枚用意されていて、クイズの正解者に1つずつプレゼントされていった。ナイツの色紙は私も欲しかったが、問題はどれも難問で、全く分からない。1問だけチャンスだったのが、土屋さんの子どもさんの話の流れで出題された、今の小学生が一番観ているTV番組は何かという問題で、「0655!!」と答えるべきだったと悔やまれた。Eテレで放映されている朝の5分番組にある「おはようソング」のコーナーで2人がよく登場するからだ。「0655」は正解ではなかったけれども、もしかしたら「色紙をあげよう」ってなことになったかもしれない・・・。

あっという間の30分だったが、絶妙の掛け合いで、凄い漫才と感じた。イントネーションを変えたり、たった1文字を言い間違えただけで、あそこまで意味がおかしくなってしまうとは・・・。ショスタコービッチが多用するわざと調子を外す手法に似ている。こんな一見何でもないようなことで、漫才がこんなに可笑しく、楽しく、聴いていて心地よくなってしまうとは驚きだ。2人の実力なのだろう。 

若い世代からお年寄りまで、オールゼネレーションを楽しませることができるのが四天王の素晴らしいところだ。彼らの漫才は現代的なのだが、懐かしい東京漫才の香りも残っているところが嬉しい。そして、寄席のお客さんを大事にしているところもイイ。

次はぜひ、寄席でナイツを観てみたいが、その日はいつになることか?


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祝・芸術祭大賞受賞-東京太・ゆめ子 [漫才]

劇団燐光群の観劇感想の途中ですが、臨時ニュースを申し上げます。

東京二・京太時代を知っているが故、当ブログでは酷評を続けてきた東京漫才の東京太・ゆめ子師匠が平成22年度の文化庁芸術祭の大賞(大衆芸能部門)に輝いたとのこと。スゴイッ!!

文化庁の発表によると、「漫才大行進」での話芸が受賞の理由とのこと。「漫才大行進」とはなんぞや?調べてみてやっとわかったことは、浅草演芸ホールと同じグループが経営する浅草東洋館にて、毎月上席に開催される漫才を中心とした興業とのこと。浅草ではかつて松竹演芸場が東京漫才の常打ち小屋として貴重な場であったが、それを復活させた取り組みといえるだろう。

文化庁芸術祭とは、文化庁のプレスリリースによれば、「文化庁では、広く一般に優れた芸術作品を鑑賞する機会を提供するとともに、芸術の創造と発展を図り、我が国文化の向上と振興に資するため、昭和21年から芸術祭を毎年実施しています。」とある。対象となる公演は今年の10月2日(土)から11月10日(水)の期間に開催されたもので、演劇、音楽、舞踊、大衆芸能、テレビ・ドラマ、テレビ・ドキュメンタリー、ラジオ、レコードの8部門があるようだ。受賞には大賞、優秀賞、新人賞などがあり、今回の京太・ゆめ子師匠は最高の大賞に輝いたのだ。

お二人にはもちろんお祝いを申し述べたいところだが、今回の受賞にはいくつかの疑問もある。

芸術祭参加公演一覧によれば、今回の受賞の対象となった「漫才大行進」は11月4日~6日の期間に開催されたものであるらしい。上席は恐らく10日興業であろうから、そのうちの一部の興業を芸術祭参加公演にした理由は何なのだろうか?推測では、文化庁側から審査員が客席に来ていて、10日間通しで観ることが難しかったのであろう。そこで3日間を観て審査したのではないだろうか?

次なる疑問は、今回の受賞者がなぜ京太・ゆめ子師匠の一組だけだったのだろうかという点である。

私はかつて、学生時代にリーガル天才・秀才師匠の「第一回天秀の会」という会に行ったことがある。昭和60年代で、場所は東京三宅坂の国立演芸場、芸術祭参加企画であった。前座で弟子の高峰和才・洋才が登場し、「私たちはこれから『芸術祭不参加漫才』を演ります」と言っていたので、その会の時は天才・秀才師匠の漫才のみが選考の対象となっていたように思う。その年の芸術祭では残念ながら選には漏れ、翌年のリベンジで見事大賞を受賞したと記憶している。

「漫才大行進」には京太・ゆめ子師匠以外の漫才コンビも多数出演しており、京太・ゆめ子師匠だけが「芸術祭参加漫才」ではなかったはずである。逆に言えば、対象の3日間の公演では出演者全員に芸術祭入賞のチャンスがあったのではないか。その中で、京太・ゆめ子コンビが審査員のお眼鏡にかなったということなのだろう。それにしても大賞とは凄い!

新聞によると、受賞理由は「優れた間」と「伝統の継承」が高く評価されたとあった。私は知らなかったのだが、最近の同コンビの漫才では京太師匠が「もう帰ろうよ」というセリフを使っているのだという。これは故・松鶴家千代若・千代菊師匠のお約束の決めゼリフであった。旧・東京二・京太コンビは故・Wけんじ一門の筆頭であるため、京太師匠の師匠は東けんじ師匠なのかと思いきや松鶴家千代若師匠なのである(ここらへんがややこしい)。20年以上の人気コンビを解散し、素人の奥さんとの夫婦漫才に転じて15年以上。これまで私が観た京太・ゆめ子コンビはお世辞にも上手い漫才ではなかったが、試行錯誤ののち、ついにたどりついた「もう帰ろうよ」であったのではないか?京太師匠ほど人気と実力を兼ね備えた天才が、ここまで苦労を重ねてついに実を結んだ、そういう漫才の神様からのご褒美が今回の受賞だったように感じる。

今日の午後、たまたま電源を入れたテレビでNHK「年忘れ漫才競演」が放映されていた(大晦日の放映ではないんですね)。最後から2番目に登場した京太・ゆめ子コンビ。見たところ、以前とそんなに大きく変わってはいないように感じたが、心なしか、ゆめ子さんに自信がついたような感じもした。そして、最後に、「もう帰ろうよ」の決めゼリフもしっかり確認した。

このたびの受賞、本当におめでとうございました!!!


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信念のほんわか漫才-夢路いとし・喜味こいし [漫才]

11月6日の朝日新聞に喜味こいし師匠のインタビュー記事が載っていた。

「いとし・こいし」といえば、いわずと知れた上方漫才のビッグネームだが、その芸風は、なんとも軽妙で、この記事のタイトル通りほんわかした、ほのぼのとした暖かみのあるものだった。私は大阪の、それも吉本のお笑いがどうも好きになれなかったが、「いとこい」漫才だけは大好きだった。

20年くらい前にNHKラジオで「いとこい」漫才特集があり、その時に長寿芸の秘訣についての質問を受け、こいし師匠が答えていたのを覚えている。それは、一番を目指すのではなく、常に二番手のポジションを目指してきたのが、良かったのではないかというものだった。(二番手でも充分大変だと思うが、)普通は目標は一番に設定されるものだと思う。しかし、一番になるためには、相当の努力やエネルギー、運も必要だ。かなり無理をして、体をこわしてしまうかもしれない。それに対して、「いとこい」漫才は脱力的で、自然体であるように思える。けっして無理をせず、ありのままの笑いを目指したところが、結局は長続きの秘訣だったということなのかもしれない。

朝日新聞のインタビューに話を戻そう。60年の漫才歴で2人が求めなかったものは「爆笑」であったという。力ずくではない、自然体の笑い。この姿勢がぶれなかったことこそが長寿芸の秘訣であったのではないかと記事担当の篠塚氏は推察している。

寄席での出番にも独特のこだわりがあったという。「トリは絶対に取らんと言うてました。名前が売れてきて、『トリを取らなアカン』と言われたけど、一つ前のモタレにしといて、とね」と、こいし師匠。モタレとは東京の寄席ならヒザと呼ばれる順番だ。最も好んだモタレは寄席を締めくくるトリへの重要なつなぎ役だが、「楽で無責任なやり方」とこいし師匠は笑う。しかし、そこには、そのポジションこそが自分たちの持ち味を発揮できる最高の場所という強い信念があった。

さらに、「下ネタ」の要素がないことも、2人の漫才に品位と、安心感を与えている。2人は少年漫才師としてスタート。その時代の体験が下ネタをやらないという信念の下地になっているという。「先輩の舞台をみてて、大人は笑てるけど、子供は笑てへん。なんで笑わへんねんと思ったら、兄貴は『あれは下ネタ系統やから子供には分かれへん』」。

しゃべりのテンポと間にこだわり、目先の笑いや笑いの大きさに走らない、一定の抑制をきかせた漫才。1980年代のマンザイブーム以降、2人の話芸は希少な「王道」として存在感を増したと篠塚氏。

その芸を受け継がせる弟子を両師匠は取らなかった。「自分らには自分らのものしかない。自分に合うたしゃべり方は何かということ」とこいし師匠。確かにあのおかしみは、あの2人にしか出せない持ち味かもしれない。

笑いは聴く人を幸せにする。そして、幸せな気分にさせるのに爆笑はいらない。伸び悩んでいる若手漫才コンビには教訓としてしっかりかみしめてもらいたい言葉だと思う。

 


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リーガル天才・秀才「ぜいたくは損」 [漫才]

リーガル天才・秀才は東京漫才の中でも私が最も好きだったコンビの1つだ。私がこのコンビの名を知ったのは将棋番組でだった。昭和40年代後半頃だったか?それはNHK「お好み対局」という将棋番組で、何人かの芸能人をゲストに、その時代の若手スター棋士が「駒落ち」で対局をするというもの。このスタイルの番組は現在でも時々放映されている。

当時の私は小学校の低学年くらいだったろうか?漫才にも落語にもまだ興味はなかったと思う。「お好み対局」ではプロ棋士と芸能人の対局が大盤で解説される。解説者は高柳敏夫八段(当時)だったように思う。また、プロ棋士は米長邦雄八段(当時)だったと記憶する。そして、ゲストには芸能人の中でも腕自慢と言われる顔ぶれが5名ほど出演した。将棋盤は5面ほど並べられ、同時に進行していく(これを5面指しと言う)。

当時のゲストの常連は神田山陽、田辺一鶴、それにリーガル天才・秀才らがいた(山本直純が出演していた記憶もある)。出演者の名前は解説用の大盤(これも5面用意されている)に表記されていて、子供心に、この「なんとか天才」、「なんとか秀才」って誰?と思ったものだ。漫才コンビだということを知らないので、正真正銘の天才と秀才なのかとさえ思っていた。漫才コンビだということは後で知った。結局、この「お好み対局」で講談という演芸があることも知ることになる。私にとって「お好み対局」は思い出深い番組なのである。将棋の腕前だが、強いのは秀才師匠の方だった。天才師匠はとても弱く、相方と一緒についてきたという感じだった。

そして間もなく、漫才大会の中継番組があり、そこで、漫才を演っている天才・秀才師匠を観て、納得したのである。天才師匠が知ったかぶりをしてボロが出るというパターンは子供にも分かりやすく面白いし、このコンビだと全く嫌みにならない。いっぺんにファンになった。ところが、天才・秀才師匠が出演する演芸番組を探すのは容易ではなかった。当時はまだ、東京漫才がよくTV放映されていた時代だったが、天才・秀才師匠はその数年前に記者会見まで開いてテレビ出演のボイコット宣言をしていたのだ。なぜ、そんなことをしたのかというと、お笑い番組で若手漫才師に氷の上で漫才をさせるという趣向があり、それに対する報復のつもりだったという。両師匠にとって漫才は一流の「芸」であるという思いがあった。当時、東京漫才界で天才・秀才といえば、てんや・わんや、Wけんじなどと共に大変な人気者であったという。彼らからしてみれば、自分たちがそのような行動に出れば、テレビ局側も少しは反省してくれるのではないかという読みがあった。

ところが思惑は外れた。NHKを除く民放各局からはお呼びがかからなくなってしまった。その後、「ボイコット宣言」は取り下げたものの、民放各局との関係修復は難しかったのではないかと思う。

今回はそんな天才・秀才師匠の懐かしい漫才を再現してみたい。「月給袋」とともに良く演じられていた「ぜいたくは損」。ちなみに、2人の漫才の台本は天才師が担当していて、ペンネームはうさはらじ(憂さ晴らし)である。

(秀才)大勢のお客様に来て頂きましてありがとうございます。

(天才)若くてきれいな女の方も大勢お見えになっていませんが。

(秀才)「いませんが」ってことはないでしょ。

(天才)よく観ると所々に盛りの過ぎた乙女の方が・・・。

(秀才)なんだ「盛りを過ぎた」っていうのは!

(天才)じゃあ、おばあちゃん、いまだに盛ってんの?

(秀才)そうじゃないけど。でも、世の中考えてみれば便利になりましたねぇ。東京からこの会場まで2時間ちょっとで来ちゃうんだものねぇ。

(天才)いいところだよねぇ。

(秀才)ほんと。だけど便利になったのは結構。豊かになったのは結構なんだけど、イイことばかりじゃあないんですよ。

(天才)豊かになって便利になると、それだけ贅沢になるんだから。贅沢になるとみんな損なんですよ。

(秀才)豊かで便利になると何でも機械だのみになってしまうんですよ。ボタン押せばなんでもかんでもできちゃう。

(天才)そうそう。会場におられるお年寄りの方が若い時分、一番大変だったんだから。色んなことがあったもんね。

(秀才)ありましたよ。

(天才)何があった?

(秀才)明治時代には戦争が、大正の頃は不景気があった。それから昭和に入って2度も3度も戦争があった。

(天才)うちの近所に火事もあった。

(秀才)火事はどうでもいいけど・・・。苦労の中を生きてきたのは体が達者だったから。

(天才)ということはお年寄りの方がこの素晴らしい日本を作ってくれたんだ。だけどあんまり豊かになって、贅沢になって、みんながそうして横着になって怠け者になっちゃって。

(秀才)自分の体を使うの忘れちゃうんだよ。

(天才)今日、会場におられる若い人だって、他のお年寄りの方の年になるまでには弱っちゃうぞ。

(秀才)体使わなきゃ弱っちゃいますよ。何でもかんでも機械だよりになっちゃあいけないんですよ。

(天才)洗濯だって、東京に住んでいるマンションの若奥さんなんか、大きなものなんか自分の手で洗えないもんね。自分の手で洗えるのは靴下かハンカチぐらいのもんだ。

(秀才)そういう小物なんですよね。

(天才)大きなものは全部、電気洗濯機いれちゃって。あんなものはボタンさへ押せば勝手に洗うんだから。「(洗濯機の音の真似)ワニャニャニャニャ・・・」。洗い終わったらちゃんとしぼり機にかけりゃあいいんだから(しぼる真似をする)。

(秀才)手でグルグル回すの?相当古いの使ってるね、君んとこは。

(天才)えっ?

(秀才)20年も前のを使ってるよ。

(天才)あ、そうぉ?

(秀才)まあ、モノを大事に使うっていうのはいいんだけどね。

(天才)昔の人はね、こんな洗濯機なんてなかったから。タライだよ、タライ。

(秀才)懐かしいねぇ。

(天才)おばあちゃん方お嫁に行った時分にお家に洗濯機なんかありましたか?なかったでしょ?ほら、うなずいてるよ。

(秀才)そうそう。 

(天才)なかったって。貧乏だったから!

(秀才)よせよ!あんな機械そのものがなかったんだよ。

(天才)でもタライは充分便利だよ。まず、洗濯に使える。

(秀才)洗濯に使えますね。

(天才)そのあと夏になったら行水を使うんだよ。

(秀才)若奥さんなんかが行水をね。

(天才)家族の皆さんが全部お風呂に入って、お嫁さんは一番最後に入って行水に使うんだ。

(秀才)一番最後にね。

(天才)いいもんだったなぁ、年寄りを大事にして。おまけにタライっていうのはまだ便利で、親戚が大勢みえたら、あのタライで五目ご飯をかき混ぜるんだよ。

(秀才)ウソだよ。非衛生でいけないよ。

(天才)だけど昔の人は偉かったなぁ。昔はお湯だってなかったんだから。

(秀才)昔は瞬間湯沸かし器なんかなかったんだから。

(天才)冷たい真水でね。手を見ればヒビ、アカギレで真っ赤に腫れ上がっちゃって。

(秀才)痛いんだよね、それが。

(天才)それでも冷たい真水の中にお手々を入れて。真心込めて、ゴシゴシゴシゴシ、「これは旦那さまの大切なフンドシよ」って。これが終わったら、こんどはワタシの腰巻きを洗いましょ。

(秀才)こういう具合に体を使ったでしょ。だから達者でいられるんですよ。

(天才)家のことだって電気にあんまり頼ってちゃあだめだよ。お掃除だってそうだよ。

(秀才)掃除が機械なんだよね。

(天才)何でも電気洗濯機?電気・・ほら。電気なんだっけ?

(秀才)洗濯機じゃないよ。あれはクリーナーね。

(天才)えっ?

(秀才)クリーナー。

(天才)ああ、電気クリーム。

(秀才)クリームじゃない、クリーナー!

(天才)あ、そうだなー!あんなのばっか使ってたら腰を痛めるよ。

(秀才)つまり姿勢がワンポーズになってしまうからね。

(天才)昔は箒(ほうき)にハタキだよ。

(秀才)これも懐かしいねぇ。

(天才)あれだって、ちゃんと運動になるんだよ。

(秀才)運動に?

(天才)障子の桟(さん)に溜まっているホコリをハタキで落としてさ。舞い上がらないように静かにはき出して。

(秀才)仕事をしながら体操をしてたという。今の若い人たちはね、運動のためにわざわざお金を使うんだから。

(天才)カルチャーセンターだかなんだか知らないけども、あんなとこわざわざ出かけていってお金使ってんだから。

(秀才)そうそう、昔の人は倹約が頭にあったからね。

(天才)昔の人は頭がイイからね。仕事をしながら体操ができるようにちゃんと考えてあるんだよ。おまけにお掃除する時の若奥さんのスタイル、色っぽかったよ。

(秀才)どんなスタイル?

(天才)まず、姉さんかぶりしてね。

(秀才)これは日本手ぬぐいじゃないとダメ。

(天才)そうそう、タオルは重いからダメ。姉さんかぶりも新妻のうちがいいな。80のお婆ちゃんじゃあどうにもならないな。

(秀才)婆さんかぶりになっちゃうね。

(天才)で、赤いタスキかなんかをキュッキュッとしめて。お掃除をはじめるからってんで、ちょいと尻をはしょって。

(秀才)ちょいと尻をはしょるわけ。

(天才)あんまり大きくグッとはしょったらダメ。

(秀才)何でダメなの?

(天才)昔の女の人は何にも履いてねぇからよ。

(秀才)スッポンポンでノーパンな訳ね。大変なんですねぇ。こういう風に便利になったのはいいんだけど、機械に頼りすぎちゃうと全部ダメになるんですよ。

(天才)だから今日会場にいらっしゃるおじいちゃん、おばあちゃんはもっと威張ってもらっていいんですよ。今の若い人たちを作りだしたんだから。うちのお袋も今年80になるけれども元気で白髪なんて一本もないよ。

(秀才)大したもんだねぇ。

(天才)うん、毎週染めてるもん。

(秀才)あるわけないよ。

(天才)自慢は歯だね。虫歯なんか一本もないよ。

(秀才)虫歯が無いのはうらやましい。

(天才)全部入れ歯。

(秀才)あるわけないでしょ。

(天才)目も自慢だなあ。新聞読むのに老眼鏡なしでこうやって・・・。

(秀才)ちょっと、ちょっと、それは変だよ。新聞を読む時は、普通は上から下へこうやって縦に首を動かすのに、なんで横に動かすの。

(天才)えっ?あぁ、失礼、失礼。うちはニューヨークタイムズだから。

(秀才)またぁ。

(天才)だからおばあちゃん方、もっと威張った方がいい。年寄りは国の宝!。

(秀才)今いいこと言ったねぇ。ウチの相棒の言葉で今までで一番感激した。もう一回言ってくれよ。

(天才)えっ?そんなに良かった?

(秀才)良かったよ。

(天才)何て言ったっけ?

(秀才)やだなぁ。「お年寄りは国の宝」でしょ。

(天才)ああ、そうか。お年寄りは国の宝です。

(秀才)そうだそうだ。(お客さんも大拍手)。

(天才)オレは腹の底からそう思ってんだから!お年寄りは国の宝です。年寄りがおられると、毎月毎月食い扶持がかさんで・・・。

(秀才)おいおい。

(天才)今のタンマ。

(秀才)お米を炊くのも今はどこの家にも自動炊飯器があるでしょ。自動炊飯器はお釜の内側に線が引いてあって誰でも炊けるようになってるんです。

(天才)あんなもの線が引いてありゃあ簡単だよ。昔のお釜はつんつるてん。線が引いてなかったから水加減が難しかったんだよ。だからお姑さんに教えてもらったり、ご近所さんに訊きにいったりしたもんだ。

(秀才)こうして会話が生まれたんだよね。

(天才)ご飯を炊くのだって今は電気だけど、オレのお袋なんかは薪で炊いてたぞ。

(秀才)薪で炊いたご飯は美味しいんだけど手間がかかって大変なんですよ。

(天才)朝なんか寒いのにみんなより一時間も早く起きて大変だよ。僕は寒いから布団の中から見ていたよ。「ああ、お袋さんは大変だなあ。家族のために少しでも美味しいご飯を食べさせたいんで一生懸命だ。僕もはやく大きくなってお袋の面倒をちゃんとみるようにしよう」と思った。こういう姿を子供に見せていれば、非行少年なんか生まれるはずがないんだから。

(秀才)昔から言われているのは、子供というのは働く母親の背中をみて育つってこと。

(天才)そうそう。だからうちのお袋の背中、もの凄いよ、入れ墨が。

(秀才)よしなさい!それより薪で炊いたご飯は面倒なんだから。

(天才)薪はすぐに燃えないんだよ。雨で濡れたり、野良犬がオシッコかけちゃたり、野良猫がウンチしちゃったり、燃えにくいんだよ。出てくるのは煙ばかり。煙が目に入るだろ、滲みるよ。とたんに涙から目がポロポロ、ポロポロ。

(秀才)なんだ?

(天才)煙が出るんだよ。

(秀才)それは分かっているよ。

(天才)滲みるんだよ。

(秀才)そうだよ)

(天才)とたんに涙から目がポロポロ、ポロポロ。

(秀才)それが何だって言ってるんだよ。

(天才)お客様は離れたところで聞いているから聞きにくいところがあるかもしれないけど、君はこんなに近くにいて、耳がおかしい。ああ、扁桃腺だ!

(秀才)ちょっと待てよ。扁桃腺は喉の病気でしょ。

(天才)イヤ、君は扁桃腺だ。耳が悪いと誰が何を言っても聞こえない。

(秀才)そうだよ。

(天才)だから「返答せん」(扁桃腺)。

(秀才)もうイイ!(完) 


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リーガル天才・秀才「月給袋」 [漫才]

志ん五師匠の思い出の続き。初めて志ん五師匠の高座を聴いた時のことはよく覚えている。それは、大学生の時に観た国立演芸場での高座だった。なぜ、よく覚えているのかというと、それはこの時のお目当てがリーガル天才・秀才師匠の漫才だったからだ。天才・秀才師匠は私にとって幻の漫才師で、当時はテレビでも寄席でも滅多に観られず、唯一、国立演芸場でのみその舞台にお目にかかれるという貴重な演芸場が国立演芸場なのだった。

前半の出演者は記憶が不確かな所もあるのだが、志ん五師匠の「蜘蛛駕籠」は間違いなく当日の高座にかけられた。この噺はこの時に生まれて初めて聴いた。まず、志ん五という単純な名前と顔が怖そうだったこと。そして、駕籠をかく仕種がとても可笑しかったことが印象的だった。

 

昭和62年9月13日、国立演芸場

中席

落語 前座(名前不明)「?」

落語 柳家小満女「?」

中国漫談 詩水じゅんいち

落語 古今亭志ん五「蜘蛛駕籠」

講談 宝井琴柳「?」

落語 三遊亭圓彌「豊竹屋」(入船亭扇橋の代演)

お仲入り

漫才 リーガル天才・秀才

曲芸 ボンボンブラザーズ(東冨士夫の代演)

落語 三遊亭金馬「目黒のさんま」(?)

 

手元に当日のパンフレット(裏表紙のところに入場券の半券を貼っておいたので日時も判明)を見ながら当日の出演者を思い出している。古い記憶なので「?」が多い。小満女さんは現・一九師匠だが、もしかしたら当日は代演の志ん八さん(後の右朝師匠)だったかもしれない。

詩水じゅんいち師匠はその頃よく名前を見かける漫談家だった。普段は中国でビジネスをしていて、日本に帰ってきているときに寄席出演をしているのだというようなことを説明していた記憶がある。良く通る美声にもかかわらず滑舌が悪いというか話が聞き取りにくい師匠だったのを覚えている。

仲トリは代演で圓彌師匠。かつてNHK「お好み演芸会」のレギュラーで「幻の噺家・三遊亭圓彌です」の自己紹介でお馴染みの師匠だったが、どういうわけか私が寄席にいくと圓彌師匠の高座に出会うことが多かった。

食い付きはお目当ての天才・秀才師匠。寄席の舞台でみる天才・秀才師匠の漫才はとても生き生きと楽しそうで絶品だった。ネタはお馴染みの「月給袋」だった。

秀才「近ごろ、嫁さんがどんどん強くなっちゃって」

天才「おかしいじゃないの、どんなものでも古くなればどんどん弱くなるのが当たり前だよ。どうして君んちのカミさん強くなってるの」

秀才「それがどうも月給が銀行振込になってから世の中の女性が強くなっちゃたみたいなんですよ」

天才「そういえば近ごろギャラが本人の目の前を通らないんだよ。事務員が『天才さん、うちも今度から銀行振込にしましたから』だって」

秀才「これはもう時代の流れだから仕方ないけどねぇ」

天才「お客さん方は知らないかもしれないけれども、我々みたいな芸人はみんな現金でギャラをもらってたんですよ」

秀才「そうなんですよ」

天才「例えば今日みたいに10日間の仕事が決まると前金でいくらかもらえるんですよ」

秀才「そうそう」

天才「で、半分終わったところでまたいくらかもらって、全部一辺にはくれないんだよなあ」

秀才「全部渡しちゃったら逃げられちゃうかもしれないんでね。信用がないんだね」

天才「で、10日間全部おわったところで、残りがもらえる。」

秀才「そうそう」

天才「ところがその日が日曜だったら、明くる日になるんですよ」

秀才「そうなんだよね」

天才「またその明くる日が祝日だったらまた明くる日になる」

秀才「そうそう」

天才「その明くる日に会計係が死んでいたらパーだ」

秀才「そうなっちゃうんだよね」

天才「現金でもらえた頃は良かったよ。こういう風に2~3枚抜いてね」

秀才「これが楽しみだったの」

天才「帰りによく行ったよ、屋台のおでん屋に」

秀才「そうそう」

天才「ところが最近は銀行振込だからコレできないよ(札を抜き取る手真似をする)。だから可愛そうに、つぶれちゃったよ、あのおでん屋」

秀才「そういう悲劇が起きているんですよ。ねぇ皆さん、自分で働いてもらったお金くらいは、自分の手で自分のウチへ持って帰りたいでしょ」

天才「そうそう、月給袋を持って帰るからこそ亭主らしさが出るんじゃない」

秀才「亭主の値打ちはあの袋にあるんですよ」

天才「男の体はあの袋でバランスを取ってるんだから」

秀才「多少ぶらつくけどねぇ」

天才「何を言ってるんだ!でも昔の給料日は朝からカミさんの様子が違ってたね」

秀才「どんな風に違った?」

天才「パタパタ、パタパタお化粧しちゃって」

秀才「うちの嫁さんなんかも、もう朝からワソワソワソワソしちゃって・・・」

天才「そうかそうか、ハハハハ・・・・っ、ワソワソワ?何だそのワソワソってのは?」

秀才「ソワソワしちゃって」

天才「ソワソワか。」

秀才「おとうちゃん、漫才って凄いお仕事なんだね。1ヵ月働いて3億5千万円ももらえるなんて」

天才「おいおい!うちのカミさんなんかも喜んで、『おとうちゃん、こんなにいっぱいもらっちゃって、これで相棒がいなかったら丸儲けだねって』

秀才「よせよ!」(完) 

 


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国立演芸場「漫才さつき祭り」 [漫才]

大学に入学したら大好きな東京漫才を観たいと思っていた学生時代。昭和61年11月に念願だった漫才大会を浅草公会堂で観ることができたことは既に書いた。ところが、昔のパンフレットを整理していると、その半年前に国立演芸場で開催された「漫才さつき祭り」にも出かけていることが分かった。このイベントは毎年5月に行われているものらしい。

国立演芸場は東京三宅坂にある国立劇場に併設された演芸用の劇場だ。都内にある4つの定席に加え、ここ国立演芸場でも落語定席が行われているが、ここの定席は少し変則で、一ヶ月のうち20日ほどが定席で、それも昼だけのことが多い。また、通常は10日間ごとに落語協会と落語芸術協会が交互に興業を打つが、国立演芸場ではその中に三遊亭圓楽師の一門や立川流の噺家が出演したりもする。色物の師匠方も多彩で、人気があるにもかかわらず都内の4つの寄席ではあまり観られない芸人さんが多数出演するのも魅力だ。三宅坂といえば国会議事堂があるなど官庁街で、こんなところに演芸場があるのは少し違和感がある。リーガル天才・秀才師の漫才をここで観たときに、天才師が「(となりに最高裁判所があるので)ここでは悪いことができない」と説明していたのが可笑しかった。

さて、この「漫才さつき祭り」は忘れられない思い出がある。それは客席にいた漫才作家の神津友好先生にサインをいただいたことだ。子供の頃、私は将来、漫才作家になりたいと本気で思っていたことがあり、神津先生は憧れの先生だった。こういう時だけ勇気が出る私は、当日のパンフレットとボールペンを持って、「神津先生、サインをいただけますか」とお声をかけることができた。神津先生はニコッと笑われて、快く応じてくださった。カバンから筆ペンを取り出され、「お名前はどんな字?」と聞いてこられた。そして、パンフレットの裏表紙にもの凄く上手な字で、

昭和六十一年五月三十一日

 (私の名前)さま

      神津友好

とサインして下さった。このパンフレトは私の大事な宝物だ。

 

昭和61年5月31日(土)1時~、国立演芸場

特別企画公演「漫才さつきまつり」

漫才 新山絵理・真理

漫才 青空ヒッチ・ハイク

漫才 おぼん・こぼん

似顔絵漫談 晴乃ピーチク

漫才 獅子てんや・瀬戸わんや

仲入り

漫才 星セント・ルイス

漫才 あした順子・ひろし

漫才 青空千夜・一夜

新山絵理・真理は3月にNHK漫才コンクールで優勝したばかり。お笑いスター誕生でも、この日までに準決勝まで勝ち上がるなど乗りに乗っていた(結果はウッチャン・ナンチャンに僅差で敗れた)。私はこのコンビには本当に期待していたので、絵理の結婚によるコンビ解消はとても残念だった。

青空ヒッチ・ハイクも現在は解散している。この日は十八番の「エスキャ~ルゴ~」では無かった。

おぼん・こぼんはこの頃から漫才協団に加入したのだと思う。この日は客席からいくつかのお題をもらってそれで即興漫才をするという趣向だったが、客席からお題が上がらず、結局、自分たちで適当なお題を出して、自作自演の即興漫才となった。

晴乃ピーチク師はテレビでも観たことがなく、この日の高座が初鑑賞となった。パンフレットには晴乃ピーチク・パーチクのコンビ解散から14年とあった。前半の漫談はなかなか面白く客席を沸かせていた。後半は前の方の席にいた白髪のおばあさんを指名し、似顔絵漫談に。それなりに似ていたが、おばあさんとの会話が漫才のようで可笑しかった。そして最後にピーチク師のサインをして出来上がり。ピーチク師曰く、「このサインが値打ちなんですよ」。

獅子てんや・瀬戸わんや師はこの日、数年前にNHK「この人」に出演したときに制作したという木製のネタ一覧(居酒屋のメニューのように、ネタが札に書かれてぶら下がっている)。記憶では100位のネタがぶら下がっていた。そして、「この人」の時と同じように、客席からいくつかネタを選んでもらい(選んだネタは取り外せるようになっており、順番に並べられる)、その順番に漫才をやっていこうという趣向だった。こういう時、なぜか勇気の出る私は、大きな声で「何でいったの?」をリクエスト。即採用された。ところが、他のリクエストで鉄道ネタが出て、ネタ的には少しバランスが悪くなったのは残念だった。全部で5つ位のネタがリクエストされ、覚えているものでは、他に「新民謡」、「尾張漫才」などが演じられた。

星セント・ルイスは初登場とのこと。最後に背が低い方のルイスが背の高いセントを持ち上げて引っ込んだのを覚えている。

あした順子・ひろし師は寄席でもお馴染みの人気コンビ。順子師がひろし師を豪快に投げ飛ばして下がった。

トリは青空千夜・一夜師。背の高い方が一夜師で低い方が千夜師(よく間違えられるらしい)。お馴染みのネタだったと思うが、途中から客席の子供が泣き出した。すかさず、一夜師が「どこかで子供が泣いてるぞ」とやり、大ウケ。さすがだった。


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中田ダイマル・ラケット「地球は回る」 [漫才]

私は大阪の、それも吉本の漫才が好きではないことは既に書いた。しかし、例外もあって、夢路いとし・喜味こいしの漫才は大好きだ。この2人の言葉はもちろん大阪弁なのだが、私が嫌いな大阪の漫才のそれとは随分違うように聞こえる。実に上品で、美しい大阪弁に聞こえるのはなぜなのだろうか?

いとし・こいし師ほど美しい大阪弁には思えないが、中田ダイマル・ラケットの漫才も好きだった。ダイマル師の独特のしゃべり方、時々発する擬声表現の面白さがたまらなかった。このコンビは兄弟コンビだ。漫才コンビには面白い名前を付けるコンビが多いが、ダイマル・ラケットとは変な名前だ。2つの名前がそれぞれ変わっていて、かつ、2つの言葉になんの関係もないように思えるからだ(例えば、テニス・ラケットとかならわかる)。ウィキペディアによると、ダイマル師はかつて兄と中田ダイマル・デパートという漫才コンビを組んでいたことがあるという。ダイマルは百貨店のダイマルなのだ。ところが兄のデパートさんが病気で亡くなり、後年に7歳下の弟のラケット師とコンビ再結成した経緯がある。ラケット師はなぜ「ラケット」なのかは不明だが、きっと、ダイマル・ラケット結成前に別のコンビを組んでいたのではないかと思われる。

私がダイマル・ラケットの漫才を好きになったのは高校生の頃にラジオで聴いた「地球は回る」でだった。地球が丸いことも引力があることも信用しないダイマル師をどうしても説得できないラケット師の困惑ぶりがとても可笑しい。

ダイマル「今日は神さんに手を合わせるのを忘れたんで気分が悪いわ」

ラケット「そら気分悪いわな。なにガミさんや」

ダイマル「なにガミさんゆうことがあるかい。お日ぃさんやないかい」

ラケット「あんなもん神さんか?」

ダイマル「神さんやないけ。山川草木、皆、お日ぃさんの恩恵を蒙っとるで。ほな、北野の天満宮、あれ誰が祀ってある?」

ラケット「あれは菅原道真公や」

ダイマル「あれ、神さんか?ほな、神戸の湊川神社、あれ誰が祀ってある?」

ラケット「楠正成や」

ダイマル「あれ神さんか?みんな人間やないか?伏見のお稲荷さん、あれ誰が祀ってある?」

ラケット「キツネや」

ダイマル「ほれみぃ。どれも人間が神と崇めとるものやないか。なんの恩恵も蒙っとらん。恩恵を蒙っとるお日ぃさんに手を合わせて何が悪い」

ラケット「しかし、今時、時代遅れなヤツやなぁ。今は月にロケットが行く時代やで」

ダイマル「ロケットが?ラケットがそない言うとんのかいな」

ラケット「おかしな言い方するなや」

ダイマル「よくテレビでやっとるがな。月から帰ってきたところを。あんなもん信用したらあかんで」

ラケット「信用したらあかんゆうて、あれは月から帰ってきた証拠やないか」

ダイマル「だったら下りてきたところから見せんかい。そんなもん一つもやらへん。あれはなあ、どこかの海で撮影しとるねん。ほかの国にみつかったら行ってないことがバレるんで『おーぃ、誰もおらへんかぁ。よっしゃ。ドッボーン』ゆうて浮かばせとるねん」

ラケット「それでも、月で歩いとったの君もテレビで観たやろが」

ダイマル「ありゃぁスタジオでスローモーション撮影しとるねん」

ラケット「スタジオで?月の石を持って帰ってきとったやろが。あれは月に行った証拠やで」

ダイマル「あんなもんどこの石かわからへんで。六甲山の石に硫酸かけたってできるわ」

ラケット「硫酸?月からの音声が届いとったやろ」

ダイマル「あんなもんどうにでもできる。『(中継の真似)アーアーアルバイ。カンバック』なにゆーとるねん!」

(中略)

ラケット「君は地球は丸くないと言うんかいな」

ダイマル「丸うない!君は地球というから丸いと錯覚するんや。地べたといいなさい」

ラケット「地べた?」

ダイマル「君は学校にある地球儀を見て地球は丸いと思うとるんやろ?地球儀が丸いのはな、世界地図書くのに場所とるやろ。そやからあれは丸いんや」

ラケット「ようそんな無茶なこと言うなぁ。地球は太陽の周りを回っとるんやで」

ダイマル「太陽?罰当たりが!」

ラケット「『太陽』ゆうたら罰当たりか?」

ダイマル「当たり前や。あれはお日ぃさんやないけ。太陽ゆうんはな、あれは太陽族が勝手に言いよるねん」

ラケット「太陽族?」

ダイマル「あれはお日ぃさんとか、『ひ』とか『にち』と言い方が決まっとるねん。あれを『太陽』と言うたら言いにくい言葉がいっぱいあるで」

ラケット「どんな言葉?」

ダイマル「『こんどの日曜日は何日やった』いうてみ。『こんどの太陽曜太陽は何太陽やった』となるで」

ラケット「そんなもん一々『太陽』に変えんでもええがな」

ダイマル「大体、地球が丸かったらどないなる?一番上の人はええわ。横の人は困るで。家は柱が打ち込んであるからまだええ。車は車輪がついとるで。『(擬声語)シュワン!あらどっか行ってもうたで?ああ、北海道にあった』」

ラケット「何でそないなるん。君ね、引力いうの知っとるの?」

ダイマル「何じゃいそりゃ?」

ラケット「知らんか?ニュートンいう人が、リンゴが木から落ちるのを見て発見したんや」

ダイマル「その『にゅう麺』いうヤツ、アホと違うか?」

ラケット「にゅう麺?」

ダイマル「ええか?リンゴはな、秋になると木が枯れて重とうなるねん。リンゴに限るか?ミカンでもなんでも秋になると重となるねん。(変な節の歌を歌う)『あ~きぃ~が~来たよ~ポトン』

ラケット「何いうとるねん」

ダイマル「引力いうのは磁石みたいなもんか?」

ラケット「そうや」

ダイマル「子供のころよく磁石で遊んだわな。ピチンと手応えがあったわ。けど、地球には手応えも足応えもないのはどうしてや?あるのはガム踏んだ時だけや、ピチン!」

ラケット「アホなこと言うな!それでも引力はあるんや」

ダイマル「君はどうしても地球は丸い言うんやな?」

ラケット「そうや!」

ダイマル「朝起きたら、天井にくっついとるで」

(完)

土曜日の朝日新聞に「今こそダイマル・ラケット」というコラムが掲載されていた。大阪漫才界にあってはどちらかというと異端的な存在で、革新性を追求した新しい漫才で、現在の人気お笑いコンビのネタのルーツ的な漫才という評価なのだそうだ。


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第17回漫才大会 [漫才]

毎年、暮れになるとNHKでは「年忘れ漫才競演」という番組を放映していた。この番組は西日本地域で東京漫才コンビを観ることができる貴重な番組だった。いつも大きなホールからの中継録画だったことから、自分もチケットを買えば入場することができるはずだと思っていた。そして、関東の大学に入学したら、一度行きたいと思っていた。このイベントは漫才協団が毎年開催している漫才大会の中継なのだった。無事、大学へ入学した後、私は「東京かわら版」を書店でみつけ、購入するようになっていたが、巻末に毎月の落語会等のイベント予定表があり、そこに漫才大会を見つけた。

一日二回興業で、一回目と二回目で若干の出演者の交代があったようだ(ほとんどのコンビは二回とも出演)。そして、プログラムの中ほどにテレビ中継用のコーナーが用意されていた。このコーナーは一回目、二回目とも用意されていたことから、出来の良い方を採用したのかもしれない。そして、毎年一組のコンビが漫才協団の幹部(落語会に倣い「真打ち」と呼んでいる)に昇進し、そのお披露目がある。この年の幹部昇進はWモアモア(東城けん・東城しん)の2人だった。ちなみに東城というのは師匠である東けんじの「東」と宮城けんじの「城」を合成したものだということである。

プログラムは前半に若手コンビを中心に、後半に行くに従って知名度の高いベテラン人気コンビが登場していくようになっていた。一組一組の持ち時間は5分程度と大変短かったが、終わるたびに、ファンのおばちゃんたちから花束が渡されていた。また、ピン芸人(1人で舞台に立つ人)の何名かも漫才協団に所属していて、そのような芸人も登場した。南けんじ師匠はこの時はじめて知った芸人さんだ。以下はその日のプログラムだ。

 

第17回漫才大会-Wモアモア幹部昇進真打披露

1986(昭和61)年11月27日(木)、17時~(第2回公演へ入場)、浅草公会堂

担当:昭和のいる・こいる

「漫才協団“ご挨拶”」

会長:コロムビア・トップ

副会長:リーガル天才

理事長:青空一夜

他幹部一同

第一部「次は俺達の天下だ!」

司会:高峰コダマ

漫才:セーラーズ(エル・アイ)

漫才:高峰東天・愛天

漫才:玉助コンビ(東洸介・玉助)

漫才:てきさすコンビ(三田みつお・まさお)

漫才:春日富士松・たけお

漫才:大空ネット・ワーク

第二部 口上「十一代目真打披露」

Wモアモア(東城しん・けん)

Wけんじ(東けんじ・宮城けんじ)

コロムビア・トップ

リーガル天才

ゲストコーナー

司会:東京二

春日栄芝

坂野比呂志

カルーセル麻紀

深江章喜

NHK中継へのご案内(東京二・笑子)

「’86 年忘れ漫才競演」(NHK・TV収録)

(放送日)昭和61年12月31日(水)、午後1時~

司会:Wエース(丘エース・谷エース)

漫才:新山真理・絵理

漫才:新山ひでや・えつや

漫才:Wモアモア(東城しん・けん)

漫才:青空千夜・一夜

漫才:内海桂子・好江

漫才:リーガル天才・秀才

第三部「青年笑行軍」

司会:高峰一軒

漫才:桂光一・光二

漫才:青空一歩・三歩

漫才:高峰和才・洋才

漫談:晴乃ピーチク

漫才:大瀬ゆめじ・うたじ

漫才:マキノ洋一・初江

漫談:南けんじ

漫才:大空あきら・たかし

第四部「壮年組と弟子もち親方衆」

司会:青空田の志

漫才:大空みつる・ひろし

漫談:東京太

漫才:青空球児・好児

漫才:あした順子・ひろし

漫才:さがみ三太・良太

漫才:Wけんじ(東けんじ・宮城けんじ)

漫才:松鶴家千代若・千代菊

最後は3本締めの盛大なお開きだったと記憶している。


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浅草東洋館 [漫才]

松竹演芸場が昭和58年に閉鎖となって以降、長らく、東京漫才の定席寄席はなくなっていたことは既に紹介した。ウワサでは寄席は出演料(ワリ)が数百円とかでとても安く、生活費を稼ぐ場ではない。では何の場なのかというと、稽古の場なのである。木戸銭を払ってまでやってくるお客さんを相手にする生の舞台は、芸人にとってのまさに真剣勝負の場だ。そして、5~10日程度連続して行われる寄席興業においては、一度として同じ舞台はないといわれ、毎回違うお客さん相手の、まさに一期一会の勝負が繰り広げられるのだ。

喜劇俳優の故・三木のり平さんは、若手時代には寄席にも出演していた。その時に、落語の先輩から、「ウケなくても、毎日同じネタで頑張りな」とアドバイスされたという。最近は、前座さんでも、お客さんから大きな笑いを取る強者も存在するが、私はどうかと思う。芸人なら誰しも笑いを取りたいのが人情だと思うが、それに安易に流れてしまうと芸を鍛えることができないようにも思うのだ。逆に、ウケないネタを毎日繰り返すことは、とても忍耐と勇気がいることでもあると思うが、それを続けることで、大したネタでないのに、やり方によっては笑わせることができるというツボを体得することができるとか、同じネタをやっているからこそ、日ごとのお客さんの反応の違いなどを体感することができるといったメリットがあるのではないか。毎日同じネタだからこそ、自分の芸の上達も体感できるということもあるかもしれない。

まあ、それだけが寄席の舞台への立ち方ではないとは思うが、色々なやり方で、自分の芸を磨き、お客さんの反応を確かめることができる実験場でもあるのだ。寄席でウケるとその芸人は自信がつくだろう。そのネタは大きな財産となって、ヨソでここは絶対に笑いを取りたいという時の安全パイや切り札になってくる。その積み重ねによって名人芸は出来上がっていくのではないかと思う。

松竹演芸場閉鎖から18年たった平成12年の元旦、東京漫才界にとって待望の寄席が開館した。浅草フランス座東洋館である。この小屋は浅草演芸ホールと同じ建物にあり、前年に閉館したストリップ劇場跡を改装したものだ。漫才専用の寄席ではないが、漫才など色物を中心とした興業が行われている。

以下はオープン後間もなく、初めて東洋館に入った時の番組である。この時は漫才以外の色物が中心であったが、通常の寄席では観たことのない芸人さんばかりであった。

平成12年2月4日(金)、浅草フランス座演芸場

「ザ・バラエティIN東洋館」

Wしんご(青井しんご・赤井しんご)(漫才)

マイウェイ昌彦(おしゃべりマジック)

ぴろき(ギタレレ漫談)

マジック・ジャパン(マジック)

三木ヒロシ(サル真似漫談)

岡史朗(歌謡ショー)

ミスター梅介(法律漫談)

森野ひろし(声帯模写)

東京ミュージカルボーイズ(歌謡漫談)

途中入場だったが、漫才はWしんご(チラシにはベテランコンビ復活とあった)の1組だけ。

ぴろきは現在、落語芸術協会所属で落語定席でよく見かけるようになったが、当時はまだ無名。「明るく陽気にいきましょう~」の歌は同じだったが、登場時にこの曲のかなり長いバージョンのものを歌っていた。途中、客席から「おもしろくない!」とのヤジが飛び、高座が中断。聞いていると、「爆笑問題の方が面白いゾ」というのがお客さんの主張だったようだ。ぴろきさんでさえ、こういうツライ場もたくさん経験してるんだろうなぁと今は思う。

三木ヒロシは一見、バナナのタタキ売りなんかをやりそうな雰囲気の芸人さんだったが、この日はサルの真似をして、ミカン(皮の固いハッサクのようなミカンだった)の皮を円盤状に剥き、それを客席に向かって円盤投げするという芸を披露した。ミカンの皮は本当に上手に飛んだ。そして、今日はお客さんにもお手伝いをお願いしたいとのことで、目が合ってしまった私がつかまってしまった。よく覚えていないのだが、確か、客席の前の方へ呼ばれ、そこでサルの真似をしている三木ヒロシさんとミカンでキャッチボールをしたような記憶がある。

岡史朗は文字通り歌謡ショー。まじめな懐メロが延々と続く。寄席に上がって、こんなものまでやるのかとビックリした。全然面白いと思わなかったが、客席の平均年齢が高かったため、結構喜ばれていたようだ。売店でこの人の歌が入ったカセットテープが販売されていたのには笑った。

ミスター梅介は知っている。昔、「お笑いスター誕生」に出ていて、団体戦では白組の司会を担当していた(紅組はひびきわたる)。おなじみの服装(法廷で検察官あたりが着る本物の衣装なのだそうだ)に六法全書片手というスタイルで登場。客の反応がおかしいのでヘンだなと思ったのだろう。めくりをみると、前の出演者の岡史朗のままとなっている。あわてて自分でこれをめくり、「今日はスタッフがいないんで、めくりは自分でやらなきゃならないんですよ」と説明。この人は実は記憶力がすごいらしく、当日の読売新聞にたまたま掲載されていた自分の記事を紹介していた。内容は「全国のラーメンの名前に詳しいミスター梅介氏」というようなものだったと思う

森野ひろしは淡谷のり子の物まねが絶品だった。

東京ミュージカルボーイズはエレキギターを持った2人組。伴奏担当は大阪出身のようだった。ボーカルは男前で、かなり高い声を出すおじさんだったが、どこかで見覚えのあるような顔だと思ったら、東京ロマンチカでボーカルをやっていた人だった。


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